「蒸気機関車がいた時代」

石北本線 常紋信号場
 その1

 「スイッチバックの信号場」、山懐に抱かれたイメージの憧れをかき立てる響きがある。昭和41年秋に新線切換えで廃止された狩勝信号場なきあと、道内で本格的なスイッチバック構造を持つところは常紋だけになり、本務機D51と9600の補機が重連、後補機で運用されていた。

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常紋信号場 【昭和42年2月21日】
 初めてこの地区に行ったのは狩勝峠が新線に切り替えられた翌年の昭和42年2月21日のこと.急行「石北」で生田原下車、6:27発の523列車で常紋に初めての下車.この年はこの半日だけで下見程度にとどめ、翌日は石北峠(上越、中越)で撮ったが、谷が狭く後補機はあったがD51のみでスイッチバックもないということで、以後石北本線は常紋をピークとしたこの峠道に集中して撮ることに決めたことを記憶している.


常紋信号場 【昭和42年2月21日】
この遠軽発網走行き混合523列車は後補機をつけたまま常紋で客扱いしていた.前後進のたびに汽笛が何回も山間に響いた.


常紋信号場 【昭和42年2月21日】
網走5:40発札幌行き502D急行「オホーツク」は7:15頃の通過..


常紋信号場 【昭和42年2月21日】
 昭和42年は雪が少なくトンネル上の斜面の熊笹が見えている.運よくここで初めて後補機の自動解放を見ることができた.貨物列車がトンネルを出てすぐの受器に本務機のD51が生田原からの通票を投げ込み通過、そして最後尾貨車のすぐ後からトンネル内で走行中に切り離された9600がゆっくりと減速しながらD51が残していった煙とともに顔を出し通票受柱の位置で停車する.


常紋信号場 【昭和42年2月21日】
 この位置で停車し先ほど本務機が投げ込んだ通票を駅員から受け取り、まだ煙が出ているトンネルへとバック運転で生田原へと戻って行く.当時ここ以外では蒸機の自動解放は行われていなかったこともあり、もっと撮りたかったが結局この時限りの撮影となってしまった.最近知ったことだが翌43年4月下り急行「石北」が通過する際に金華までの通票を受け取れず(授器に通票を設置し忘れたらしい)非常停止し、トンネル内で自動解放した直後の9600の後補機が追突するという事故があったため自動解放はそれ以来行われなくなったようだ.


常紋信号場 【昭和43年2月29日】 連続写真1/3
ここから昭和43年撮影分.


常紋信号場 【昭和43年2月29日】 連続写真2/3


常紋信号場 【昭和43年2月29日】 連続写真3/3
信号場の乗降用木製ホームからこんな安直な撮り方もできた.


常紋信号場 【昭和43年2月29日】


常紋信号場 【昭和43年2月29日


常紋信号場 【昭和43年2月】


常紋信号場 【昭和43年2月29日】


常紋信号場 【昭和43年2月29日】
夕方17時過ぎに客車列車どうしの交換もあった.左が534列車、右が533列車.


常紋信号場 【昭和44年2月】
ここから昭和44年撮影分.


常紋信号場 【昭和44年2月18日】 連続写真1/3
珍しく9600重連の混合列車.


常紋信号場 【昭和44年2月18日】 連続写真2/3


常紋信号場 【昭和44年2月18日 連続写真3/3


常紋信号場 【昭和45年2月25日】
ここから昭和45年撮影分.


常紋信号場 【昭和45年2月25日】


常紋信号場 【昭和45年2月25日】
昼頃に上下の貨物列車が待避線に入り機関車4輌が揃うシーンが見られた.


常紋信号場 【昭和45年2月25日】   
この時は特別な運用だったようで、上り列車の前補機の96がここで切り離され金華または留辺蘂まで単機回送された.


 
 
常紋信号場 【昭和45年2月25日】  


 
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常紋信号場 【昭和45年2月25日】  



【「常紋信号場」はその3まであります】

 
石北本線 留辺蘂・金華」 2022.2/15〜6/14
石北本線 金華から常紋へ」 2022.6/15〜10/14
「石北本線」は他に生田原シリーズ(全5回)があります。 


 
 
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