「蒸気機関車がいた時代」

天北線 雪晴れの浜頓別 昭和44年2月23日

既に廃線となって久しい天北線Wikiは当時から旅客列車は全て気動車化されており、わずか数本の貨物列車を9600が牽くまさにさいはてのローカル線だった。前夜札幌から急行「利尻」に乗り音威子府で午前3時過ぎに下車、3:44発の「利尻」接続の始発列車で浜頓別へ。浜頓別着は定時で4:59、前夜は吹雪でこの時もかなり遅れて到着したという記憶がある。夜が明けるとまさに雪晴れの素晴らしい快晴となった。

天北線は音威子府 から浜頓別を経由し南稚内に至る148.9kmの路線で、宗谷本線の当初のルートであり大正11年に稚内まで全通。昭和元年、音威子府・南稚内間に、より距離の短い天塩線が幌延経由のルートで開通すると、昭和5年に天塩線が宗谷本線に編入され音威子府から浜頓別経由稚内までの旧来ルートは北見線として分離されたという歴史があります。音威子府の未明の一番列車接続は、旧本線だった地元への利便性確保のためだったようです。
天北線の名称に変わるのは大分遅くなって昭和36年10月1日の全国的な白紙ダイヤ改正の時だそうです。



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夜が明けてきた浜頓別駅
ホームには、旭川で「利尻」に積み込まれ音威子府で始発に乗せかえられて到着した鉄道荷物が高く積み上げられている。「利尻」接続の始発列車が音威子府3:44発とはいかにも早すぎるような気がしていたが、今回この写真を見て当時の鉄道輸送の役割の大きさを改めて知った。
(ダンボール箱の字を原画で拡大して見ると、「そば」「はるさめ」、そして最も大量に積み上げられている箱には「雪印みかん」と書いてあるように見えます。これはみかんジュースのことでしょうか。お分かりの方は是非お知らせください。)


素晴らしい快晴の朝


入換えに忙しい9600達




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防寒の黒い覆面がとてもいい






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浜頓別の駅から歩いて撮った。 連続写真1/3


連続写真2/3


連続写真3/3






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上り急行「天北」 札幌行き

天北線はこの時だけの訪問だったが、雪晴れが幸いしたのか強い印象が残っている。
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