「蒸気機関車がいた時代」

日豊本線 大分機関区・宇佐・日出・今津 昭和39年

昭和39年12月19日、東京から急行「大和」に乗り翌20日に関西本線中在家信号場、亀山機関区で撮影した。その日は草津線で京都に出て、また夜行の都城行き急行「日向」で21日に初めての九州に入り大分で下車した


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大分駅 8620 【昭和39年12月】
急行「日向」の大分到着は9:19、架線のない広々とした構内を8620が入換えで忙しそうに働いていた。


大分機関区 C58 【昭和39年12月】
豊肥線の客車列車用C58、豊後竹田まではC58が走っていた。


大分機関区 8620 【昭和39年12月】


大分機関区 D60 【昭和39年12月】
これは久大線用のD60。


大分機関区 C57・DF50 【昭和39年12月】
機関区で撮影している時の出来事を記したものがごく最近見つかったので、当時書いたものをそのまま以下に掲載します。

門デフのC55を撮影している時に一人の相当年配の職員が近くに寄ってきて話しかけた。
「どこから来たの?」、「東京からです」、「九州はここが初めて?」、「今朝初めて九州に入り、ここで降りたばかりです」、「これからどこへ行くの?」・・・いくらかのやり取りがあり私が撮影を続けているところをしばらく見ていてまた話しかけてきた。「あの、悪いけど私が機関車に乗っているところを写してくれないかなぁ」、「えぇいいですよ」、「来年の春に定年なんでね」そう言ってその老職員はなつかしそうにあたりを見回した。「C55で撮りますか?」、「いやそれは宮崎のカマだからこっちにしよう」と言って大分区のC57のキャブに乗った。C57よりスポーク動輪のC55の方が好きだったからなのだが、バカなことを聞いてしまった。ファインダーをのぞきピントを合せると、朝の斜光線に白い無精ひげを生やしたしわだらけの顔が少しさびしげにほころんでいるのが見えた。
手帳に住所を書いてもらってから、「ちょっと来なさい」というのでついて行くと煤で黒くなっている小ぶりの建物に入って行った。ロッカーを開けて、「お礼と言っちゃあなんだけど・・・・・」と言って日豊本線、豊肥線、久大線のダイヤをくれるという。「えっ、いただいていいんですか?ありがとうございます、助かります」。貨物列車が載っている列車ダイヤはのどから手が出るほど貴重な、とても素人では手に入らないものだった。
10日ほど九州内を歩き回り、東京に帰ってからその写真を引き伸ばし大分へ送った。それから1週間ほどすると封書の手紙が来た。それによると、できるだけ大きく引き伸ばし額に入れて飾り一生の記念にしたいので、是非ネガを送って欲しいというようなことが書いてあった。お役に立ててこんなに嬉しいことはない、もちろんすぐにネガを送った。

それからも「国体があるから見に来てくれ」など何回か手紙のやり取りがあったが、結局お会いすることなく今に至っている。ネガは送ったが写真を残しているはずなので探したがどうしても見つからない。自分が同年代になってみると何とかその写真をもう1回見たいのでもう少し探してみるつもりだ。



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大分機関区 【昭和39年12月】
このあとは、久大線の豊後中村に行った。


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宇佐駅 DF50 【昭和39年12月】
D50が撮りたくて帰り際の12月30日にまた日豊本線に行った。まだ「はやぶさ」・「みずほ」・「さくら」は蒸機牽引だったが「富士」のみはDF50だった。
右側の急カーブは大分交通宇佐参宮線(昭和40年8月に廃止された)



日出駅 D50 【昭和39年12月】
上り貨物列車。


日出駅 D50 【昭和39年12月】
茅葺きの家が写っていると嬉しくなってしまう。


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今津-天津 D50 【昭和39年12月】


今津-天津 D50 【昭和39年12月】


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今津-東中津 【昭和39年12月】


今津-天津 D50 【昭和39年12月】
下りの単機回送がきた。


今津-天津 D50 【昭和39年12月】


今津駅 C57 【昭和39年12月】
重連の上り列車。


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今津駅 【昭和39年12月】
本務機はD50かD60のようだ。この日の夜行に乗り、出来たばかりの新幹線で12月31日に帰京した。


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