「蒸気機関車がいた時代」

関西本線
 中在家信号場 昭和39年12月20日

昭和39年12月20日、初めて中在家(なかざいけ)信号場を訪ねた。この年の春と夏に最期のC51を撮るために亀山-柘植間を往復したことがあったが、通過列車からチラッと見るだけでも素晴らしい撮影地であることがわかった。この信号場はD51の補機運用がある関西本線の難所「加太(かぶと)越え」で知られた1000分の25の急勾配の途中にあり、スイッチバック構造になっていた。駅の並びは亀山-関-加太-中在家信号場-(加太トンネル)-柘植の順でトンネルが頂点になっている。
ちなみに旧東海道の宿場の並びは、亀山、関、坂下と続き鈴鹿峠を越えて伊勢から近江国に入り、現在の草津線に沿って、土山、水口、石部、草津となっており、国道1号線も全く同じルートである。さらに昔の律令の時代は、柘植に抜ける加太越え(伊勢から伊賀国へ)のほうが交通量が多かったといわれている。


通過列車を待つ通票。 ここは時刻表にも名前がない信号場だったが、一部の気動車は急勾配の本線上に停車し乗降させてくれた。


峠を越えてきたC57牽引の普通列車が、小気味よい走行音をたててダブルクロスを通過する。名古屋機関区の赤いプレートがまぶしい。


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この日はよく晴れて寒い朝だった。貨物列車が25‰の急勾配を駆け下りる。


後補機付きの貨物列車が交換のため待避線に入ってきた。 [連続写真1/3]


腕木式信号機のあたりから手前が平坦になっているのが分かる。 [連続写真2/3]


このような時の絶気合図はどうしていたのだろう。 [連続写真3/3]


交換の貨物列車が下っていく。 [連続写真1/3]


後補機付き貨物列車同士の交換。平坦か25‰の勾配かでこれだけ高さが変わる。 [連続写真2/3]


[連続写真3/3]


信号場から加太トンネルまで歩いた。


加太トンネルの直前、本務機は既にトンネルの中。


信号場から少し下がったところからは、きれいな田園が望める。


列車交換で平坦な待避線にいた列車が、これも平坦な折り返し線に後退する。右は25‰の本線。


一旦停車し、今度は前進で加速する。 [連続写真1/3]


本線に入ると25‰の急勾配が始まる。 [連続写真2/3]


加太トンネルへ向かう7両編成の荷物専用列車。当時、本線では鉄道荷物が多く輸送されており、専用列車が走っていた。 [連続写真3/3]


こういう線路配置だった。あとで読み取ることを考えれば真正面から撮ったほうがよかった。


珍しく編成の短い補機なしの貨物列車が来た。 [連続写真1/3]


 [連続写真2/3]


 [連続写真3/3]


後補機付きの貨物列車が上って行く。 [連続写真1/3]


[連続写真2/3]


[連続写真3/3]


亀山機関区 C57
午後から亀山機関区を訪ねた。

亀山機関区 D51とDF50


亀山機関区 D51


亀山機関区 C57
名古屋機関区の赤いナンバープレート。


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亀山機関区 C51


《 関西本線は別の機会にまた掲載します 》
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