「蒸気機関車がいた時代」

函館本線 函館駅・青函連絡船

北海道には昭和41年から47年まで毎年冬場の2〜3月に行っていた。もちろんいつも青函連絡船で津軽海峡を渡っていた。やはり船便は特別で行きは北海道へ渡るという高揚感、帰りは慢性的寝不足による心地よい疲労感と内地へ戻らなければならないという感傷、いずれにしろ短いながらも船旅特有の感情の増幅があったことをなつかしく思い出す。
当時飛行機はまだまだ普及していなかったので函館はまさに北海道の玄関であり、ここを通らないと道内各地のどこにも行けなかった。定員1200人の連絡船が毎日片道10便、12000人の輸送力があったわけで、函館発の下りは各便からの乗り継ぎ下船客をのみ込み、船の到着時刻に合せた団子状態で毎回優等列車が続々と出発して行くという特別な駅だった。

戻る
 特急「おおぞら」 【昭和44年2月】  
4:40発釧路行き特急「おおぞら」(終着14:51)の向こうに青函連絡船で津軽海峡を航送される貨車が見える。


 
特急「おおぞら」 【昭和44年2月】
夜明け前の函館駅は活気に満ちている。海峡を深夜に渡る客が多いため、この時間帯は便が2本ある。3:55着の11便(上野12:10発急行「十和田1号」、金沢9:20発の急行「しらゆき」接続)、4:20着の1便(上野15:40発特急「はつかり2号」、大阪8:30発特急「白鳥」接続)からの客を待ちうけるのは4:40発の釧路行き特急「おおぞら」、4:45発の小樽経由旭川行き特急「北海」、5:05発の小樽経由札幌行き急行「ライラック」の3本。右奥の2階部分に連絡船桟橋からホームにつながる通路が見える。


特急「おおぞら」 【昭和44年2月】
道南の函館でも2月の夜明け前はさすがに冷え込む。釧路行き特急「おおぞら」が乗り継ぎ客の2回目の眠りのために無人の車内をしっかりと温め待機している.。運転士さんから許可をもらい正面から撮らせていただいた。


特急「おおぞら」 【昭和44年2月】
12輌編成の「おおぞら」には前夜の走行で巻き上げた雪がこびりついている。


戻る
特急「おおぞら」 【昭和44年2月】
画面中央の暗い空に光る点は函館山の灯り。建物の灯りと、より高い電波塔の対航空機用標識灯の小さな灯りがはっきり見える。


特急「おおぞら」と「北海」 【昭和44年2月】
右が4:40発室蘭本線千歳線経由釧路行き特急「おおぞら」、左が4:45発小樽経由旭川行き特急「北海」、更に左は5:05発小樽経由札幌行き急行「ニセコ1号(旧ライラック)」。わずか5分差で函館本線を疾走する2本の特急列車、暗い空が薄明の暗青色に変わり夜が明けていく冷気の中を切り裂くように走り抜ける情景が目に浮かぶようだ。


戻る
特急「おおとり」 【昭和41年3月】
昼間の函館駅。列車は11:15発の網走・釧路行き12輌編成の特急「おおとり」、背景は函館山、右奥には停泊中の青函連絡船が見える。
ホームは、航送車両を留置する懐のふくらみと連絡船乗り換え客の歩行距離短縮を考えて大きくカーブしている。


【昭和43年3月】
青函連絡船くらい大きい船になると国旗が様になる。「羊蹄丸」は航送車両を乗せている最中か。


戻る
下り急行「ニセコ3号」 C62 【昭和44年2月】
吹雪模様の函館駅、14:15発の札幌行き急行「ニセコ3号」が発車待ち。長万部まではC62の単機牽引だ。


戻る
下り急行「ニセコ3号」 C62 【昭和44年2月】
函館ではこの程度の雪でも長万部からの山線の厳しい行路を想像してしまう。


下り急行「ニセコ3号」 C62 【昭和44年2月】
「ニセコ3号」の向こうには5分先発の14:10発室蘭本線千歳線経由旭川行き急行「すずらん2号」が見える。


上り準急「たるまえ」 C62 【昭和41年3月】


戻る
上り急行「ニセコ3号」 C62 【昭和43年3月】
上り急行「ていね」が目標にピタリと合わせて停止、乗客は大きな荷物を抱えながらどっと降りてきて滑りやすいホームを足早やに桟橋へ急ぐ。古くは「まりも」、そして「ていね」、「ニセコ」と列車名は変わったが、この列車は内地と札幌を結ぶ最速の郵便・荷物急送列車でもあったので機関車がDD51に変わっても客車列車として延命した。この郵便車、荷物車は航送されていた。


 【昭和44年3月】
青森からの27便が到着。青函連絡船に乗るには万一のための乗船記録が必要なので、L判大2枚つづりの乗船名簿、正式には「青函連絡船旅客名簿」というものを下りは浅虫の手前あたり、上りは大沼あたりで車掌が配布しており、荒れ模様の日などは記入する際にそれなりの緊張感があった。


 【昭和44年3月】
この27便は大阪を前夜20:45に出た急行「きたぐに」と上野発10:15の特急「はつかり1号」、さらに上野を6:05に先発した「八甲田1号」の客を乗せて23:00に函館に到着する。


 
 【昭和44年3月】  
接岸後桟橋側から架けたタラップの高さを調整中。接続列車の自由席客が今や遅しと下船の行列をつくっている。タラップ手前の赤帽さんにとっては毎度の作業なので連絡船側の完了合図が出るまで余裕の待ち姿。


 
 
 【昭和44年3月】
 接続の列車を目指し足早に桟橋を急ぐ。先頭の赤帽さんの姿がなつかしい。


 
戻る
 【昭和44年3月】
 夜行列車の寝台券、指定券を持っている客は落ち着いたものだが、自由席利用者は少しでもいい席を確保するため連絡通路を急ぎ足で進む。


 
 
下り準急「たるまえ」 C62 【昭和43年2月】  
 40年10月改正から44年9月まで、山線の厳しい峠を越えてきたC62を使用した1217列車で行き1218列車で戻る函館-長万部の夜間の運用があった。
この画像は準急「たるまえ」、この列車が43年10月の改正で「すずらん6号」になった。左側の客車は23:29発の釧路行き421列車。


 
 
 下り急行「すずらん6号」 C62 【昭和44年3月】
 
これ以下の画像は43年10月改正以降なので、ホームで待つのは23:46発札幌行き急行「すずらん6号」。


 
   
下り急行「すずらん6号」 C62 【昭和44年3月】
 
C62の44号機が満を持して待機中。旋回窓の割損防止用の網がものものしい。


 
下り急行「すずらん6号」 C62 【昭和44年3月】
23:46の発車時刻を待つ。C62を先頭に荷物、郵便荷物、オハネフ12、スハネ16、オロネ10、スロ54を含む堂々12輌編成。


 
 下り急行「すずらん6号」 C62 【昭和44年3月】
藤城線開通後とはいえ12輌牽いての10‰の連続勾配は苦しい行路となる。


 
 下り急行「すずらん6号」 C62 【昭和44年3月】
「すずらん6号」は横になれるほど空いていないし翌朝札幌に着いてしまうので使いにくく、実は1回も乗ったことがない。道内移動中に函館から乗る列車はいつも「すずらん6号」の9分後の23:29発の釧路行き421列車で翌早朝に山線のどこかで降りてC62重連を撮るというパターンが多かった。
鹿部、大沼、森あたりで撮ったあと函館に戻り夕飯を食べるのだが、時には駅近くの喫茶店で時間をつぶしたことを思い出す。そして駅に戻る際に駅前に何軒か出ていた屋台のおでんをよく食べたが、これがショウガ風味の珍しいもので体が温まりとてもおいしかった。

 
■青函連絡船Wiki(昭和43年:1968年現在)
・津軽丸  8,279t
・八甲田丸  8,314t
・松前丸  8,313t
・羊蹄丸  8,313t
・大雪丸  8,328t
・摩周丸  8,328t
・十和田丸  8,335t
各船定員:1,200名
・石狩丸(貨物船) 6,119t 【貨物船はほかに渡島丸、檜山丸、空知丸、十勝丸などがあった】
(t:総トン数)
※人員輸送のピークは昭和48年の500万人とのこと。
※旅客便は10往復/日だったが、ほかに貨物便が14往復/日あった。
※航送される車輌は貨車と荷物車、郵便車。
※全ての連絡船には有蓋車ワム換算で42輌を積むことができたので、1000輌/日の輸送能力があったことになる。

戻る


inserted by FC2 system